Ashさんってバリキャリですけど、
最初は専業主婦になりたかったんですよね?
それなのにどうして
転職とかしてまで
自立してるんですか?
はーい、ブログ主のAshです!
今日はちょっと、
私の人生について語っちゃいますね!
実はわたし、
虐待サバイバーなんですよ〜
私の人生を超速ダイレクト版で語っちゃうわね!
【虐待サバイバー】父親に蹴り飛ばされて、変わった私の人生【生きづらさを乗り越えろ】
コロナ禍の2020年は、
虐待件数が過去最悪の
20万5000件を突破しました。
今や、
虐待という言葉は
誰もがニュースで聞くほど
かつては家庭内で揉み消されていた頃も
表になる時代になりました。
筆者もいわゆる、虐待サバイバーです。
しかし、運にも恵まれて
今でも少し生きにくいけど、幸せな人生を送っています。
本記事が、
今もどこかで苦しんでいる人の助けになったり
見た目では分からない過去を背負っている人に対する
理解への啓発になれば幸いです!
物心ついた時から殴られ蹴られ、罵倒されていた
ヒステリックな母親による熾烈な暴行
筆者が父親や母親から暴力を受けた最も古い記憶は、
おそらく幼稚園のころでしょうか。
理由はなんだか覚えていないのですが
夜暗い中、家の外に蹴り出されて
近所の方が保護してくれた記憶です。
この頃は、
夜、帰宅してきた父親に
保護された記憶もあるような気がします。
これは記憶の限り、
何回も何回も何回もやられて
あまりに母親から蹴り倒され殴られるので
逃げるように家の外に靴を
こっそり隠しておいたくらいです。
今振り返っても、
よく誘拐もされず
よく車にもはねられなかったもんだと思います。
その後も時には
母親からハンガーや箱などの物で打たれ
「あんたはこうしないと分からないから」と
言われたり
学校で失敗をした日には
家に帰ったら母に慰めてもらえるどころか
立たされてものすごい勢いで罵られ
怖くて貧血を起こしたこともあります。
貧血起こして汗ダラダラで
へたりこんだ小学生の私に向かって
母親が
「あんた、何座ってんの?立ちなさいよ!!!」と
怒鳴ってきたのは、忘れられません。
人格否定の言葉の洗脳
幼少期は母親と接する時間が長かったこともあり
比較的には母親からの暴力が目立ちましたが
父親からも
「お前にはできやしない」
「お前は本当に嫌なやつだな」
「こうなったのも全部お前のせいだ」と
訳のわからない言葉の暴力をずっと受けました。
父はバブル崩壊の煽りを受けて
事業に失敗しヤケクソになっていたらしく
私がいいサンドバックになったのです。
子供は、なんでも吸収します。
子供にとって親は全てなのに
親からこんなことを言われていた私は
生まれた時には多分装着していた
自己肯定感なんて、粉々に崩壊し、
砂になって風に乗って、跡形もなく飛んでいってしまいました。
思春期を迎えてからは父からの暴行がひどくなる
大事な物を捨てられる。人格否定の嵐。
思春期の頃になると、
父親からの陰湿な暴行がひどくなります。
大切にしていた本を目の前で
これ見よがしに捨てられたり
「お前は人間のクズだ」とか
人格否定の言葉もことあるごとに
言われていました。
酒を飲んで暴れ、母を怪我させた父
父と母の仲がどうだったのかは
私はどうでも良いので今でもよく知りませんが
私が高校生の時、
父が正月に酒を飲みまくって泥酔し
母親に殴りかかり
私や弟にも暴力を振るい
包丁を出してくるという事件が起こりました。
なんで助かったのかよく覚えてないのですが
多分、人は怖すぎる記憶は
脳みそから消してしまうのだと思います。
成人してからも続いた暴力。そして起こった、夏の夜の事件
帰宅後に水をかけられ、蹴り飛ばされた21歳の夜
私は大学には行かず、短大に行き就職したのですが
それもそのはず、
地獄のような実家から
一刻も早く逃げる必要があったからです。
就職してからもすぐにはお金がないので
実家に住んでいたのですが
酒を飲んで暴れる父親に困り果てていました。
手取り13万円しかないお給料をコツコツ貯めて
ある程度の貯金を作っていた時、夏の夜のこと。
ウイスキーを飲んでいた父親は
私の態度が気に入らないといちゃもんをつけ
いきなり、水をかけてきたのです。
私は正当防衛で
咄嗟に、近くにあった食器を
投げ返しました。
そうしたら、
腹をめがけて蹴り倒し
息ができないくらい暴行を与えてきたのです。
父は、
見えるところに傷を負わせず
わざと腹をめがけて、しつこく、蹴ってきました。
女の腹を成人の男が蹴るなんて、
正気の人間がやることではありません。
たまたま弟が止めに入ってくれ
当時別れたばっかりだったのに
元彼がすぐに助けに来てくれました。
彼らがいなかったら、
死んでたかもしれません。
で、ここで私は、決心します。
「今すぐ、家を出よう。ここにいたら、殺される」と。
実家から逃げたことで、キャリアが変わった
転勤なんてしたくなかったが、キャリアの強みになった
父親から激しい暴行を受けてから
2週間で荷物をまとめて夜逃げした私は
父親とは1年間連絡を取らず
自分で生活をしていました。
しかし、
21歳の女性の給料なんて雀の涙です。
貯金も底をつきかけていた頃、
死んでも実家には帰れない。
夜のバイトでもするしかないのか、、
と思っていたら、
会社で住宅手当付きの転勤の話が上がったのです。
当時、対象は男性だけだったのに
私は生きるため、
どうしても住宅手当が欲しくて
上司と役員に直談判までして
「キャリアアップがしたいんです!!」と
大嘘をついて
転勤に成功しました。
周りの男性ですら
転勤が嫌で退職者が相次いだのに
私は女性で立った一人、地方に引っ越したのです。
同年代の友人は
東京で合コンに明け暮れ、派手に遊んでいた頃、
私は毎日22時まで地方で働いていました。
職場の男性にも
失敗して毎日怒鳴られました。
それでも、実家よりは職場が天国だったのです。
そして、このおかげで私は
唯一無二の実績をつけることに成功し
転職にもつなげることができたのです。
外資転職で給料アップ&外国の文化でようやく自分を出せた
そんな私も住宅手当が打ち切られる年代が見えてきた頃
このまま今の会社で安い給与では、
生きていけない
ということに気づきます。
そこで、
給与が高く男尊女卑もない
外資系転職を目指して
通信制の大学に編入して学歴ロンダリングをし
英語の独学を開始します。
■関連記事
【通信大学】学歴コンプレックスを克服する方法【卒業生が語る】
この甲斐あって、
見事外資系企業に転職し
自分一人でも十分に一人暮らしができるようになり
英語を習得して外国人と働いたり
外国で過ごすことも増え
親からは散々否定されていた
主張ができる、という個性が大きく花開いたのです。
日本では煙たい女として
父から殴られていた私が
外資系企業で外国人と働いたら
「Ashはきちんと自分の意見を言ってくれる。
欧州の文化の中でやってくれる唯一の日本人だ!」
と、イギリス人上司からベタ褒めされているのですから
人生諦めなくて良かったと思うばかりです。
仕事で気持ちが救われ、夫にも出会えた
仕事をするということは
日銭を稼ぐことでもありますが
私にとっては
世の中の”まとも”な
大人と接し、心を作っていくことができた
まさに人生を救ってくれたツールでもあります。
そして、仕事を通して人脈が広がった中で
今のアメリカ人夫とも出会うことができました。
夫と出会った頃の私は
今よりずっと、人を信じられず、
自分に自信もなく、ボロカスでしたが
夫と長く過ごす中で
自己肯定感というものが初めて生まれたようにも思います。
人生、諦めなければ、なんとかなるものです。
虐待されている子供を支える、オレンジリボン活動
筆者は運良く人生が軌道に乗り
自分のように困っている子供に
何か支援ができないか?と
考えるようになりました。
そこで始めたのが、
小さな一歩ですが
支援団体への、寄付です。
オレンジリボンは日本では児童虐待防止のシンボルでして
グッズの発売などもされています。
もしよろしければ、
覗いてみてくださいね。
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